古在由直博士

ポトマック100年の桜は
尾崎行雄東京市長アメリカに贈った桜に由来する。

第1回目の発送苗は病害虫があったことから全て焼却処分されて失敗。
2回目は必ず成功させなければならないと尾崎市長は思った。
成功させなければ国辱ものなのであった。

東京帝国大学農科大学教授の古在由直先生に相談した。古在由直氏は農事試験場本場の2代目場長をも兼務していた。

東京市北豊島郡西ヶ原(現在の北区西ヶ原)には農事試験場本場があり、頼みとする病理部、昆虫部があった。ほかには種芸部、煙草部、農芸化学部、報告部、庶務部があり、機能していた。

農商務省農事試験場場長の古在由直氏は、桜苗を引き受けることになった。

引き受けた桜苗は半端な数ではなかった。
勘案した結果、
清水(現在 静岡市)の農商務省農事試験場興津園芸部(1902年:明治35年創設)で育苗してもらうことにした。

興津の技師に熊谷八十三さんらがおられた。熊谷さんは、後年、府立園芸高校の初代校長になられたお人。

話はとんだが、もとにもどすと、
本場の場長:古在由直は農事試験場興津の部下に命じて、実務を恩田鐵彌、桑名伊之吉技師, 熊谷八十三技師らに桜の育苗をとりくませた。

古在由直氏の経歴をみてみよう。
日本土壌肥料学会会長麻生慶次郎氏の論文から引用する。以下に要約する。

「古在由直
元治元年12月20日京都に生まれ
明治19年 駒場農学校農芸化学科卒業
明治22年 東京農林学校教授
明治28年 ドイツのライプニッツ大学に留学。
明治33年 東京帝国大学農科大学教授
明治38年(1905年)  農事試験場場長
大正9年〜昭和3年  東京帝国大学総長 」
  
   ●ポトマック100年の桜は、静岡の興津で育苗された史実を検証する
    者にとっては、確かに、古在由直博士の育苗指示
    (明治43年=1910)がみえてこよう。


   ●古在由直博士は農事試験場場長と帝大の教職を兼職していたとの話も
    頷かれよう。

   ●古在由直博士は日本の農芸化学の開祖といわれている。
   ●日本初の公害科学者ともいわれている。
 
妻豊子は自由民権家で作家。由直の熱烈な求婚でゴールイン。その折のことを、由直をモデルにして豊子は小説『一青年異様な述懐』に発表。ほかの作品には小説『移民学園』がある。こちらは島崎藤村の『破戒』同様の社会派文学といえよう。

 古在由直博士は足尾、別子の鉱害煙害問題で住民救済に尽力された。
 関東大震災では 復興に貢献。

※日本黎明期の農事試験場の歴史
1890年東京府の西ヶ原(現東京都 北区)に農務局仮試験場農事部が設立され、1893年農事試験場官制の公布により、仮試験場は本場となった。
と同時に、6支場(大阪、宮城、石川、広島、徳島、熊本)ができた。

この農事試験場の歴史から推理すると、命令系統は、本場の西ヶ原の「指示」があったのではなかったか・・・。特にお役所のことであ。本場の西ヶ原を抜きにして桜育苗にとりくめたのかどうか、これは考察の余地はあろう。