ポトマックの桜 と 東京都北区の西ヶ原

ポトマックの桜 と 東京の西ヶ原。

地下鉄南北線西ヶ原駅から徒歩8分ほどのところに
農事試験場発祥の地・・・西ケ原(現:東京都北区)はあった。
染井吉野桜の発祥の地は、この西ヶ原農事試験場から南方に徒歩で10分ほどであろうし、
北方には五色桜の咲く荒川堤があり、徒歩で30分もあればゆきつけるであろう。

サクラの研究にはもってこいの土地柄であっただろうに、なぜか、
ポトマックに送る桜苗の育苗指示は支場の興津農事試験場にまかされたのであった。

考察すると、
興津の農事試験場には尾崎行雄市長が信頼する古在由直氏が場長でおられたこと。
そして、病害虫に強いサクラ苗をつくるに接ぎ木手法がとられたこと。

 第1回目は病害虫で全て焼却処分されたことは、日本の恥と受け止められたのではなかったか。日本の園芸技術者のプライドにかけても第2回目は失敗は許されない。
 接ぎ木の台木は伊丹の東野村から採ることとなったこと。
荒川堤のサクラ並木からは穂木が採られたこと。
苗木を痛めぬためには
船出の横浜港との距離も考慮されたであろうか。

 静岡県清水の興津農事試験場で桜苗は育苗されたのであった。


 私は雨の中訪れた西ヶ原の、いしぶみには、「農業技術研究発祥の地」と認められた。

今は、それらの研究機関は筑波学園都市に引越してしまい、跡地は次の計画があるのか、汚染された土壌をシートで覆った建物のなかで大掛かりな浄化作業中であった。

ここ西ヶ原には、農事試験場本場があっただけはなかったのだ。蚕糸学校もあった。その学校になる前の明治29年には蚕業講習所であり、大正時代になって、文部省に講習所は移管されて、1914年に東京高等蚕糸学校となったのであるが、1949年の新学制改革東京農工大学にまとめられた。

 山本茂実のルポルタ−ジュ 『ああ野麦峠』でしられるように日本の富国強兵策は、唯一の産業:蚕糸業に頼り、シルクでドルを稼ぎ、軍艦などを購入していった。西ヶ原の農事試験場本場では、桜木よりは桑の木の研究がされたのではなかったか。

 樹木消毒に、青酸ガスがつかわれる、と文献で読んだことがあるが、水銀をつかうような実験がよく行われていたのだろうか。農作物疾病対策では輸入水銀剤で種子の消毒が行われた、との文献どうりにここ西ヶ原ではおこなわれて、「水銀」による土壌汚染となったのであろうか。
写真からは汚染原因は水銀、と明記されていることが読み取れるのです。