『日本の櫻の名誉』・・・・当時の新聞記事見出し

間もなくポトマックの櫻は100年を迎える。

ワシントンのポトマック河畔での植樹式は、タフト大統領夫人、珍田駐米全権公使夫人によって、記念の植樹がされた。
東京市から贈られた桜の苗木である。

それは、見事に咲いて、咲き継いで来年100年を迎える。
タイトルの
「日本の櫻の名誉」・・・・1912年当時の時事新報の記事であるが、
現代の情報時代とは違って、不便な時代の取材活動。その影響から、記事はワシントンで植付式が行われたと報じているが、
グラント将軍の墓所傍に2500本を植えたとあるので、式典はニューヨークで挙行されたほうのが報道されたとおもわれる。首都ワシントンでの植樹式は大統領夫人のお手植えがあったが、ひっそりと行われた。

その点、ニューヨークの式典は盛大であった。
米国の13州を象どり、櫻苗木13本を一列となし数拾列に植付たとある。
グラント将軍の誕生日4月27日に植付式をおこなう筈が、雨天のために翌日となった。

植付式の様子が彷彿としてくる記事である。

日米の国旗が翻る。
日本服を纏ったアメリカの少女13人。
手には紅白のリボンをつけた真新しいスコップ。


ハドソン フルトン祝祭委員会会長ウッドフォード将軍の挨拶がある。
櫻寄贈の次第を記した東京美術学校調製の銅牌が開被せられる。
その間に
日本の作曲家高織教授作曲の「万歳」「サクラ」が奏される。(本日12日、私は上野の奏楽堂で尋ねたが、その楽譜はみつからなかった。ヤマハ楽器店も国会図書館にも、見つからなかった)。

式典は奇麗事尽くめで芽出度く式は閉じられたが何がさて快晴であり日曜に當った事とて人出多く非常の盛況を極めた。
最後に前記のウッドフォード将軍の挨拶が頗る振るっているから、茲に紹介する。

曰く
ハドソン フルトン祭の折 英佛獨蘭其の他の國は或は軍艦を送り或は
名将を派して祝意を表したが
日本は一の軍艦 一の将軍をも派さずして
その代り茲に数百株の櫻を贈って来た。
軍艦は戦争を表象し
櫻は平和を現す
と云々。
櫻が外国へいって戦闘艦以上の働きをするとは一寸珍しい話ではないか。




このような
名演説があって、盛大な植付式をニューヨークではおこなわれた。が、
ワシントンのポトマック河畔のサクラは世界的な名所になっているのに、
ニューヨークでは、サクラはどこにあるの?
と旅人が首をかしげるくらいに、
サクラを探すのは難しいとのこと。

この違いは、どこからくるのであろうか。

ワシントンには、日本の帝都東京市からプレゼントしたかたちをとったことが大きな理由かな・・・と私は思う。

ニューヨークは、在米の日本人たち、高峰譲吉博士たちがプレゼントをされたと聞いておりますが・・。受けてのアメリカ側の神経の使いようは、ワシントンとはちと違ったのかも・・・。
その後には、真珠湾奇襲があり多数をころしているのに、櫻を守り続けられたアメリカ人の度量をおもわざるを得ない。日米親善友好をおもうとき、歴史をふまえて、接することかとおもう。お花見で浮かれることも大切だが、過去の歴史を忘れないことと思う。


余談です・・・・・
グラント将軍が訪日のおり、渋沢栄一翁は、飛鳥山(現東京都北区)の自宅に将軍を招待するにあたり、毛筆で接待の指示書をだされていた。
玄関には、打ち水をしなさい。金魚鉢には●匹、入れときなさい・・・などなどであったと記憶する。渋沢翁の物凄い神経の使いようであった。その古文書を思い出します。
 サクラの苗木を日本の帝都から戴いたアメリカは、まさに神経をつかわれて、育ててこられたからこそ、今のワシントンのサクラ名所があるのではないでしょうか。



●当時の新聞記事をご紹介しましたが、記事の内容は、間違いもあるようです。
一つは、植付式がワシントンでおこなわれたとあるが、中身はニューヨークでのことであったこと。
二つ目は 日本の作曲家高織教授作曲の「万歳」「サクラ」が奏されるとあるが、

高織教授・・・は解せない。日本の苗字を調べたが(高織)の姓は無いのです。これは高折という姓ではないかと思われるのです。
東京音楽学校50周年記念誌(東京藝術大学蔵、昭和4年11月28日発行)を調査したが、教授に(高織)さんはおられなかったこと。卒業生のにも(高織)さんはおられなかったこと。

ところが、(高折)さんはおられた。記念誌31頁には、
  大正3年3月 高折宮次 本科器楽部 卒業

さらに、記念誌の43頁には、
  大正5年11月16日 研究生高折宮次(ピアノ)セロ及びピアノ合奏
とあった。
このことからも、高折宮次氏は優秀であったことが伺える。
現皇后美智子さまのピアノ教授に就任されておられた高折宮次氏である。
私は、当時の時事新報の記事中の(高織教授)は、電話取材であったことからノイズもあり、聞き違いもありで、(タカオリ)は(高折)さんであろうとおもわれるのです。

東京音楽学校に、高折という人は在籍しておられたことから、それは、高折宮次さんと推定したい。

高折宮次さんは
明治26年5月生まれであり、1915年(大正4年)22歳で卒業し、教官として母校の東京音楽学校(のちの東京藝術大学)に奉職。
故に
時事新報の高織教授作曲・・・の報道は解せないことであり、高折さんとしても、教授ではなく学生ではなかったかと思います。
東京音楽学校では、アメリカから外人教師メーソンを迎えて、西洋音楽を学ばせ、新作曲に挑戦させたそうです。この軌道上で、高折宮次は『万歳』『サクラ』を作曲されたのではなかったかと思われます。




余談です・・・・スチュワート・ウッドフォード将軍について

金子堅太郎は米国で大活躍をしたひとりである。金子堅太郎男爵はかつてハーバード大学ロースクールで法律を学び、ルーズベルト大統領と同窓であった。日本政府はその金子をアメリカの世論工作の適任者として送り込んだ。

日露開戦1ヶ月後の1904年(明治37)3月に米国入りした金子堅太郎は、新聞や雑誌などの本社が集中するニューヨークを活躍の場とした。ニューヨーク入りでは、ウッドフォード将軍が金子のために200人を超える政財界の大御所、軍高官、学者などを招待して盛大な歓迎パーティーを催してくれた。将軍はかつて日本訪問の時に、金子の世話になった。将軍は維新後の超スピード的な近代化や、日本人の勤勉さ礼儀正しさに深い感銘を受けていた。
将軍の社交界への紹介もあり、金子男爵の目的は順調にはこんだ。
在米の日本人たち、高峰譲吉らとの交流も深めることになった。サクラをアメリカに植える案を、後押しもした。

 


フリー事典のWikipediaによると、
《 滝廉太郎
1894年(明治27年)に15歳で東京音楽学校に入学する。1898年に本科を卒業し、研究科に進む。こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。》

 廉太郎は学生時代に作曲をしていたことをおもうと、学生の高折さんが作曲もあり、ではなかったかと思う。1912年に演奏された楽譜がみつかれば、申し分ないのですが、今のところ、吉報はない。