少年よ、大志を抱け・・のクラーク博士が桜を見初められて桜の種を本国へ

桜花のすばらしさを認められていたお方はクラーク博士であった、との説が浮上してきました。
シドモア女史が桜に出遭う前に、桜に惚れこまれたアメリカ人の存在が認められるかと思います。

考えてみてください。アメリカの初代大統領になった偉人《ジョージ・ワシントン(英語: George Washingtonグレゴリオ暦:1732年2月22日 - 1799年12月14日(ユリウス暦:1731年2月11日生まれ )》 を伝える子ども用読み物には、たしか、ワシントンは少年時代に桜の木を伐った・・・・とのお話しが真実らしく語り伝えられていたかと思います。
このことは、南北戦争時代に、
貴重な桜木の存在があったことを物語ってもいましょう。ゆえに、正直少年のお話しが創作されたのではないでしょうか。



それでは、
ウエブ百科のwikipediaより引用で、クラーク博士のご紹介をしましょう。

「 ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。

日本では「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士として知られる。

専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。

略歴
マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。父アサートン・クラークは医師であった。アマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学にて博士号取得後、アマースト大学教授となる(当時、アマースト大学に在学していた後の同志社英学校創設者である新島襄が最初の日本人学生であった)。
 南北戦争には北軍少佐として従軍。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代、第2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。

専攻は園芸学、植物学、鉱物学。
任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。
マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では President と表記することが開拓使によって許可され、殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。

8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。
帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。その後心臓病が発生して寝たり起きたりの生活。1886年3月9日、心臓病により59歳でこの世を去った。


彼の言葉、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」


●クラーク先生の主な教え子
一期生(16人)

佐藤昌介(北海道帝国大学総長)
大島正健(言語学者、旧制甲府中学校校長)
内田瀞(牧場主)
黒岩四方之進(牧場主)
伊藤一隆(石油会社経営)
渡瀬寅次郎(種苗店経営)
柳本通義(台湾官吏)

二期生(18人)(クラークが直接教えたことはない)
新渡戸稲造
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北海道教育大学函館校非常勤講師 浅利 政俊氏は著「クラーク博士と日米親善のオオヤマザクラ」で、
以下のようにクラーク博士のご努力を記述されておられる。
抜粋で、引用させていただきたい。
浅利政俊氏の御発掘は
日米親善史にとって、重要な発掘となりましょう。

 「・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 可憐な花をつけたオオヤマザクラ
 さすがにクラーク博士にもゆかりのある日米桜親善の役割を最初に担った野生種の桜だけあって劣悪な砂地の土壌条件の下でも堂々と見事に育っていた。

 北日本,北海道,樺太(サハリン)などに自生するオオヤマザクラの種子が明治初期,クラーク博士により米国に導入された歴史的事実は長い間,日本の桜研究者は知らず,従って日本の文献には全く記載されていない。

この事実を明らかにしたのは米国の桜研究者であり,次のようなエピソードがあった。
 解明の動機は昭和57年(1982年)5月11日,日本の野生種のサクラ種子を集めるため北海道に私を訪ねて来られた米国農務省国立樹木園調査室長ローランド・M・ジェファーソン博士(当時58歳)との出合いからであった。

 博士は日本にある寒さ,暑さに強いサクラ10種以上の種子百万粒を集めるのが目的。それを本国に持ち帰り,アメリカ合衆国の気候に適した新品種を作り出すことをめざしていた。米国の寒冷地に適する全ての野生種がある道南地方の桜の現状を知りたいとのことで,先ず,函館に来られた。以後3日間,函館公園五稜郭公園,松前公園,千軒岳山麓,大沼地区周辺,横津岳などに自生するオオヤマザクラ,カスミザクラ,チシマザクラ,ミヤマザクラや栽培園芸種の桜を案内した。

この時,私は博士に「アメリカ合衆国における日本桜の起源とその発展について研究された資料や文献があったら入手したいので協力して欲しい」と申し入れ,夏に博士の要望していた野生種の桜の種子を採集して届けることを約束して別れた。
夏休みに入り,オオヤマザクラ,カスミザクラ,チシマザクラ,ミヤマザクラの種子を採集し1個づつ果肉をとり,陰干しして得た約10万粒の種子を秋に米国へ送った。
 
 昭和59年(1984年)博士より1冊の本『The Japanese Flowering Cherry Trees of Washington,D.C』編集は米国農務省国立樹木園がしたもの。National Arboretum Contribution No.4 U・S・Department of Agricultureが届いた。
この本の内容の多くは,明治44年(1911年)2月当時の東京市長尾崎行雄氏がワシントン市に贈られた日本の桜の経過を丹念に記述したものであるが,この本の一部にクラーク博士に関する注目すべきことが書かれていた。
 
 第三章「EARLY INTEREST IN THE JAPANESE FLOWERING CHERRY TREES IN THE UNITED STATES」の中に次のように記されている。 「The introduction of a wild species of Japanese Cherry into the United States Probably did not occur until 1876 When Dr.William S. Clark, first President of the Agricultural College, Sapporo, Japan, sent home seeds of Prunus sargentii Rehd., native to the mountains of northern Japan and southern Sakhalin.」

アメリカ合衆国への日本からの野生種の桜の導入は,1876年(明治9年)日本の札幌農科大学初代学長ウイリアム・スミス・クラーク博士が北日本の山々や南樺太(サハリン)に自生するオオヤマザクラの種子を母国へ送るまでなかった。)ことを記述している。この事実についてこれまでクラーク博士の米国への桜導入やその結果の追跡調査は日本でされず日本の文献に記載されなかった。


 私はこの事実に驚き,後にジェファーソン博士と再会した折に,クラーク博士が北海道から米国に導入したオオヤマザクラその後の育成,維持管理について質問したら「外国種の樹木は当時,アーノルド植物園で植栽管理することになっていたので,そこで育成されて広まって行ったと考えられる。」との回答であった。若し,現在,米国のどこかの植物園,公園,公共施設に樹齢百二十年程のオオヤマザクラが現存していたら,クラーク博士により導入されたオオヤマザクラの可能性もあると推定される。


 クラーク博士による米国への日本桜の導入は,後に東京市長尾崎行雄氏がワシントン市染井吉野1千本とこの外日本の桜花美を代表する名花,白雪(シラユキ),有明(アリアケ),御車返(ミクルマガエシ),福祿寿(フクロクジユ),一葉(イチヨウ),関山(カンザン),普賢象(フゲンゾウ),上香(ジヨウニオイ),滝香(タキニオイ),駿河台香(スルガダイニオイ),御衣黄(ギヨイコウ)(黄色桜),11種2千本計3千本を贈る35年程前のことである。因みに水産学部構内にはかつてワシントンに贈られたものと同一種普賢象,一葉,関山,有明の4種があるほか,平成5年に英国ロンドンにあるウィンザーの王立公園からの要望で浅利が開発した新品種の中から52種贈った中にある紅時雨,紅玉恵,北鵬などもここにある。
 なお,研究棟の真ん前にある八重咲きで香気強い「北鵬」は,昭和55年5月5日当時北海道知事 堂垣内 尚弘氏が命名した桜である。これらの桜は,大山桜などと共に長く咲き続けるであろう。 」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー新渡戸 稲造博士の語録からーーーーーーーーー
太平洋の架け橋になりたい・・・・・・


❤❤❤❤❤❤❤桜100周年考❤❤❤❤❤❤❤
ポトマックの桜が世界的名所になれたことは
なぜか?
高峰譲吉博士、クラーク博士も桜をアメリカに咲かせようとされた。が、ポトマックのような世界的名所にはできなかったのは、なぜか?
●タフトアメリカ大統領夫人のご威光が、後世にまで伝達されて世界的名所にさせたのであろうか。
アメリカの民衆が桜をこよなく愛されて100周年を迎えたのであろうか。