向島の桜 と シドモア女史

日米親善の桜 & ハナミズキ
私は探究している。その過程でアリス・ベーコン女史に辿り着いた。


明治時代、文明開化が推進されたおり、
鹿鳴館の貴婦人〟といわれた大山捨松さん。捨松さんはエリザ・R・シドモア女史と接触があったのではなかろうか・・・と探究をしてきた私である。が、まだ判明はできていない。


シドモアさんは外交官の実兄に付き添い、皇族など上流階級の人たちとの接点はあった。アメリカの大学卒業第一号の捨松さんの存在を、シドモアさんは知らない筈はないようにおもう。とすると、人脈つくりの名人シドモアさんなら、貴婦人との接触をもたれた可能性は大ではないだろうか、と推測する私である。



エリザ・R・シドモア女史(1856〜1925)とほぼ同時代に生き、共に、来日のベーコン女史(1858〜1918)。シドモア女史の初来日は明治17年(1884)。ベーコン女史の
初来日は明治21年(1888)。おふたとも、繰り返し来日されている。



ベーコンさんは、日本初の女子留学生、山川捨松(結婚後、大山姓)の引きで来日。捨松は津田梅子にベーコンさんを紹介し、津田塾大学の草創期にボランティアで英語教師を勤めた。

捨松の同志津田梅子への深い友情、そして日本女子の地位向上にむけた熱意が伝わってこよう。留学の捨松は在米中、ベーコン宅でお世話になった。養父役のベーコン牧師は黒人奴隷解放論者であった。その下で娘のアリス・ベーコンとは姉妹の如くに育てられた。



来日のシドモア女史とベーコン女史の大きな違いをみると、
シドモア女史は人力車で日本国内を巡り、紀行文を小説を纏めたこと。
ベーコン女史は教職についたことである。

ベーコン女史は、華族女学校や東京女子高等師範学校など日本の女子教育に貢献された。


アリス・ベーコンの著作に『明治日本の女たち』がある。みすず書房刊は矢口祐人・砂田恵理加の両氏の翻訳、2003年発行がある。その目次の(都会の生活)には、向島の桜に言及した箇所があった。
当時の外国人に受けていた名所のひとつが、向島の桜であったのだ。
向島の桜は、シドモア女史の人生をかえるほどのインパクトを与えることになった。


『明治日本の女たち』の原著版は、日本論で著名な『菊と刀』の著者ルース・ベネディックを虜にした。日本に一度も来たことがない中で日本論の執筆をするベネディック、参考にしたのがベーコン女史の原著版であった。この一事からも思うことは、『明治日本の女たち』は、現代日本学生の必読書とされてもよいのではないだろうか、と私は思った。


向島の桜並木は、シドモアさんを魅了させ、ポトマックの桜に結実させるエネルギー源となったとおもう。
その向島の桜に関するベーコン女史の文章はリアリティがあり、明治の向島を髣髴とさせる。
是非、引用をさせて頂きたい。みすず書房さま、学究の徒に免じてよろしくお願いもうしあげます。


以下は『明治日本の女たち』みすず書房刊からの引用部分です。

《・・・花見は都市に限られた遊びではないが、都会に住む人々の一番の楽しみである。満開の季節の花を眺めにピクニックに出かけるのが花見である。東京を流れる隅田川の東岸には、日本でも有数の桜並木が数キロ続いている。四月、五月には、大きなピンクの八重桜が満開になるので、向島にはたくさんの見物客が群れをなしてやってきて、花見を楽しむ。川は舟遊びをしながら花見を満喫する人々でいっぱいになる。岸辺の茶屋はすべて満席になり、道沿いの露店や休憩所では、果物、お菓子、軽食が飛ぶように売れる。陽気な連中は少し度が過ぎほど酒を飲んでいる。家路につくときもまだ顔が赤いので、一日中何をしていたかがすぐにばれてしまう。美しい花、ゆったりと流れる大きな川、色鮮やかに着飾った群集を眺めながら、静かに時間を過ごすこともできる。・・・・中略・・・・上野公園は桜と桃、亀戸は梅と藤、王子は紅葉で有名である。また、団子坂は菊人形という名物で知られている。
菊人形は、誰もが知っている歴史や物語の一場面を題材に精巧に作られた人形である。人形は等身大で顔や手足は緻密にできており、まるで生きているようだ。・・・略・・・》
(出典:アリス・ベーコン著『明治日本の女たち』みすす書房刊 230頁より)

シドモア女史も団子坂の菊人形を見物にでかけておられた。
江戸庶民の、東京市民の楽しみを共有された外人さんたちであった・・・・。


私はOhkadoさんの下町研究、東京は谷中の調査を見せてもらったことがあった。それによると、谷中の人たちの楽しみは、以下となっていた。

一位:お花見。
二位:谷中コミュニティセンターへ出かける。
三位:谷中菊まつり。
四位:円朝まつり。
五位:朝顔市。
六位:ホオズキ市。
七位:隅田川の花火。
八位:三社祭り。
九位:羽子板市。
十位:古本市。

楽しみのトップにお花見が選ばれていた。お花見は日本人の文化となっていた。紀行作家のシドモアさんは、日本人のこころを深くよみとったようだ。桜の美しさに魅了されただけではなく、お花見の力、絆の醸し出す力を、母国アメリカに移植したかったのではないでしょうか。