ワシントンの桜100周年 当時の桜木

ワシントンの桜100周年の今年2012年

100年ほど前の
ポトマック桜の写真。まだ幼い桜木。
 
※舞子さま、コメントをありがとうございます。広島のご出身?

私は日米親善友好は大切とおもっております。
 その観点で ポトマックの桜100周年を迎えるにあたり、
探究しております。
ポトマック桜が名所となっておることには、うれしくおもっておる者です。
名所にするまでには、
多くの人たちの愛情が注がれただろうとみています。

100年ほども前の写真は、その意味で貴重な問題提起になるのではないでしょうか。
探究をなさっておられると、貴重な写真、文言に出遭えるはずです。

ポトマック桜の幼木に張り付いて愛情をそそがれた日本人がおられたこと。
ご存知でしたか。
そのお人は
田中長三郎さん。彼の存在を忘れてはならないだろうと思っております。

すでに、ブログで以下のように発信しております。

時のお上から

「派遣」されて、アメリカ農務省に席をおき、
ワシントンの桜守りをされたことの功績である。(私は断定的にみていますが、反対意見も期待しております・・・。)

その「派遣」には、日本の反省がこめられていたのではないだろうか。
1909年に、一度桜を贈った。
このときの桜は、病害虫におかされていたことで、全て焼却処分された。
二度目のチャレンジが1912年であった。

サクラの植樹式にはたどりついたが、アメリカの大地に根をはらせ
桜を咲かすには 不安があったのだ。

受けて側も
日本の良心としても、、、、

ポトマックのサクラに責任を感じていたのではなかったか。
そこで
田中長三郎さんを送り込むことになったのではないだろうか。

田中長三郎さんは、南方熊楠を強く推していたのではなかったか。

ところが、南方に断られた。

常駐させるお金はないこともあっただろう。

アメリカ農務省に雇ってもらっての 桜守りには
田中長三郎が受けざるを得なくなったのだろう。

これは、私の推理でしかない。

武士道精神の日本人ならば、そこまでしたくなったのではないだろうか。

田中長三郎さんの恩師は
東京帝大の白井光太郎教授(1863-1932) であった。

江戸の生まれで、伝統的本草学の最後の 継承者といわれる。
寄生菌類の研究で知られ、植物病理学を創始された教授ともつたえられる。

1909年に、アメリカへ桜を贈ったときは、
病害虫におかされていて、全て焼却処分されたのである。

東京市が贈った桜ではあったが、日本国の威信にかかわる事態がおきたのである。

贈るだけでなく、今的にいえば、アフターケアをすることにしたのだろう。
アフターサービス(after service)といってもよいのかもしれない。

米国でなら customer service、 user supportとうけとめられたかも。

田中長三郎さんの任務は、さしずめサクラの保守サービス、桜の育成が目的であっただろう。

在米中に田中さんは、米国理学博士号の資格をとられたようでもある。

この線で、アメリカ行きを説得されたのかも・・・。

それにしても、
農学者の田中長三郎さんを、桜守りとして張り付けさせたNipponの采配ぶりに、深く感銘する。

その努力の甲斐があって、

100年のさくらに繋がったのである。

日米の連携ぶり、努力がみてとれよう。

●田中長三郎さんの略歴をフリー百科事典Wikipediaで みてみよう。

1885年  兵庫県神戸市須磨区に生まれる。

1910年  東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)卒業。白井光太郎の     指導の下、学士論文として『日本柑橘種類学』を発表

1915年  ワシントンで米国農務省 (USDA)の技師となる。この頃より

     スウィングルの下で柑橘の研究を行う1919年   帰国、結婚。帰国直後より、スウィングルを通して親交があった南方熊楠の活動を支援し、南方植物研究所の設立に尽力

1925年  福岡県山門郡城内村(現柳川市)の宮川謙吉の宅地内にて発見された       枝変わり種を宮川早生として発表

1926年  福岡県に田中柑橘試験場を開設

1927年  雑誌『柑橘研究』を創刊。

1929年  台湾に渡り、台北帝国大学農学部熱帯農学第二講座教授に就任

1932年  東京帝国大学農学博士号を取得

1934年  日本園芸学会理事に就任

1941年  勲三等瑞宝章受章

1946年  台北帝国大学を退官、帰国

1950年  東京農業大学農学科園芸学教授に就任

1954年  九州大学理学博士号を取得。大阪府立大学農学部教授に就任

1955年  カリフォルニア大学よりセミノールとカラマンダリンの種子を導入

1956年  大日本農会理事に就任

1961年  大阪府立大学を退官(名誉教授)

1967年  勲三等旭日中綬章受章

1976年  死去、享年91。その功績を称え、天皇より銀杯一個(菊紋)が贈られ     た

1977年  国立民族学博物館所蔵品として世界食用植物資料を寄付した功績によ        り(遺族へ)木杯一組台付(桐紋)が贈られた

アメリカにわたった桜の幼木をしめすことの狙いは、田中長三郎翁を忘れないでほしい、と切におもうからでございます。私は未だに田中長三郎翁のお写真が手にはいっておりません。ご協力ねがいませんか。