日米友好のポトマック桜2・・・タフト大統領夫人

日米友好のポトマック桜を考察してゆくと、

タフト大統領夫人Helen Herron Taft
の来日は大きな意味があることが解ってこよう。

夫のウィリアム・ タフトが陸軍長官時代に、同伴で来日(1905年7月)しておられる。

日本側の接待ぶりでは、最高の待遇の、皇居に招いていた。
宮中午餐会にタフト夫妻は出席。

アメリカに桜を植樹しようとつよくねがっているシドモア女史の実兄ジョージ・W・ シドモアは、横浜領事館勤務の外交官であったことから、アメリカ合衆国特使タフト陸軍長官の接待役として、宮中午餐会に参列されることになる。実兄は独身であったことから、妹の Eriza Ruhamah Scidomore(シドモア女史)を同伴させた。

この異国での貴重な機会は、タフト陸軍長官夫人ヘレンさんとシドモア女史の親交の始まりとなった。のち、大統領夫人となったヘレンさんをシドモア女史は、愛称のネリーと呼び合う親密な間柄となった。

ポトマックの桜実現にとって、歴史的な出会いの始まりとなったのが、日本の皇室がご縁であった。

●タフト夫妻は3度は来日されておられるようだ。横浜には数ヶ月も長逗留さ れたとの 話があるほどである。

 1904年 来日
 1905年 来日
 1907年 来日
私は、ここで、注目したいのが、1907年のタフト夫妻の来日である。

1905年12月(明治38年)には日露戦争から、 満州軍司令官の
大山 巌元帥は凱旋している。

アメリカに桜を贈った尾崎行雄翁の『遺書』によると、尾崎翁は日露戦争終戦では、アメリカに大変にお世話になったことを書き残している。故に、桜を贈ることにした、と言い切っていたとおもう。
大山巌も、同じおもいでおっただろうと思えるのである。戦争が長引けば、日本帝国の負けもありえたからである・・・・。

明治政府は1907年のタフト夫妻の来日のおり、また皇居に招いたはず。
 そのおり、皇居には、大山巌夫妻も招かれてタフト夫妻と同席となっただろう。大山はこの年の1907年1月には公爵に昇格していたから、タフト夫妻のお席に近かっただろうと思われる。

大山巌公爵夫人の大山捨松は、アメリカの大学卒業生日本人第1号のお人。
タフト夫人と、にこやかに、流暢な会話をされただろうとおもわれる。
この出会いは、のちに、タフトがアメリカ大統領に就任し、タフト夫人は日本の桜を首都ワシントンに植樹を決意される、
ゴーサインをだされるに、
躊躇させないことになっただろう、と推察されるのです。

私の歴史分析があたっていることを実証してほしいものですが、皇室外交記録まで手がまわらぬので、どなたかの検証を期待しております。最近のNHK大河テレビ『江〜姫たちの戦国〜』の物語のように、歴史を女性の視点から捉えなおすことになりましょう。尾崎咢堂夫人テオドラさんと大統領夫人ヘレンさんは仲良しであったこともつたえられています。新渡戸稲造夫人メアリーさんと咢堂夫人テオドラさんも仲良しであったとも伝えられています。
人間模様が
日本の桜をポトマックに開花させることになったのでしょうか。

   シドモア女史
   タフトアメリカ大統領夫人ヘレンさん
   大山巌公爵夫人の捨松さん


フリー事典のWikipediaから、日露戦争を概観しておく。
        以下に転記。

《 日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国ロシア帝国[4]との間で朝鮮半島満洲南部を主戦場として発生した戦争である。
両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本はロシアの脅威から逃れ安全保障を達成した。さらに朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道の獲得など満洲における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。
こうして、日本は最大の目標は達成した。しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。結果戒厳令が敷かれるにまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。これはロシア側へいかなる弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民期待を煽ったために修正がきかなくなっていたこともあり、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているものである。

亜米利加への感謝の念は大山巌元帥も尾崎行雄翁同様に
もたれたことは間違いないとおもう。