ワシントンの桜100周年・・・作曲家高折周一氏の曲が

 ワシントンの桜100周年が
 今春にやってくる。

いわゆるポトマックの櫻並木100周年を祝いたい・・・
ことから、私はかつて、99年前のことを探究してきた。
アメリカで日本の櫻植樹祭がおこなわれたこと。ニューヨークでの櫻植樹祭は盛大であった。ワシントンの櫻植樹は簡素であったこと。

ニューヨークでの櫻植樹祭では作曲家高折周一氏の作曲による
「萬歳」と「サクラ」が奏でられた、と当時の新聞はつたえていたこと。

私は、この演奏された曲を探究してきた。

2011年の暮れの大晦日に、高折宮次教授のご遺族さまから、叔父の周一氏であったようですと、お教えいただいた。


高折周一氏はいかなる人物か。
しらべてゆくと、郄村光太郎との接点がみつかった。
●郄村光太郎は談話で高折周一先生を語っておられた。
  以下。

《 僕の母なども長唄から笛などもやった人であるが、きつく禁じられていた。祖父はまた大津絵などをとても上手く唄っていたのを覚えている。僕はだからいまだに君ヶ代も満足には歌えない。
小学校の試験の時には唱歌は歌えないので、その代り僕はオルガンを弾いた。美術学校時代にはヴァイオリンを
神田小川町の高折周一先生についてさかんにやった。忙しい学校歴訪の間に、自転車の後にヴァイオリンを乗せて通っていた。
 こうして僕はアメリカへは日露戦争のすんだ後一九〇六年の二月に出掛けた。ロンドンにいた時にはマンドリンをやった。ピアノはミス ファウラーについて一寸勉強したがすぐやめた。
 そんなにやっていた楽器もある日ザウエルの音楽書を読んでその日限り止めてしまった。一つの音を出すにも並大抵のことではないという真剣な芸術論に触れ、自分のやっていたことがまるで冒涜(ぼうとく)のようにふり返られたのである。
 大体以上が美術学校時代である。(談話筆記)》

www.aozora.gr.jpさま、
引用させていただきました。有難うございました。
筆記者に感謝もうしあげたいとおもいます。
お陰さまで、生き生きした高折周一先生像がリアルになって
迫ってきたとおもっています。



ほかにもみつかった。
●井田康子さんの御論文『「高村光太郎」ノート その七』には
光太郎が高折周一さんにヴィオリンを教わったことを記されておられた。
以下に引用させていただきました。

《 十年経って日露戦争当時は、光太郎は二十二三才、荷風は二十六七才。
光太郎は年譜によると「明治三十七年二十二歳 二月号『ステュディオ』
ロダンの「考える人」の写真を見て感動する。この年夏、上州赤域山に五
十余日滞在 八月には新詩社の人々をむかえ案内する。赤城は、父の
産土様で自分の山のような気がしていたので毎年でかけ、絵を笛いたり歌を作ったりした。
この年 高折周一の音楽講習所に入りヴィオリソを習う〕「明治三十
八年二十三歳 四月、新詩社演劇会で作品「青年画家」が上演される 》

井田康子さま、ご研究をありがとうございます。

●1914年(大正3年)帝國劇場で高折夫妻の活躍がみられた。以下

  1月 「無名会第一回公演」『オセロ』
      【作・シェイクスピア
      訳・池田大伍】
      オセロ・東儀鉄笛、
      イヤーゴ・土肥春曙、
      帝国劇場

    『蝶々夫人プッチーニ
    『櫻々とちょんきな』
      高折周一、
      高折寿美子夫妻、
      帝國劇場