名誉都民の尾崎行雄翁・・・さくらを贈ったことも評価される

『名誉都民小伝』によると、
尾崎行雄翁は名誉都民であった。以下、



昭和二十八年十月一日顕
尾 崎 行 雄 氏
(号 咢堂)

 安政五年十一月二十日、尾崎行政の長男として生まれ、慶応義塾を中退し、
直ちに報知新聞に勤務し、二十二歳のときに新潟新聞主事となる。その後、統計院権少書記官に任ぜられたが、官を辞して再び報知新聞、朝野新聞に筆を取る。明治二十二年衆議院議員に当選し、じ来当選引続き二十五回、その間外務参与官、文部大臣、司法大臣等を歴任し、昭和二十八年七月十七日衆議院より名誉議員に推挙せられた。明治三十六年六月二十九日から同四十一年九月十二日およびら同四十一年九月三十日から同四十五年六月二十六日まで、第二代、第三代の二回に亘り東京市長に就任した。当時東京の市区改正事業は多年の問題であったが、氏は外債を募集して、最も必要である万世橋から京橋の間を先ず第一に改正し、全市の都市計画事業に着手した。これによって、東京の主な地区はおおむね改正され、当時山の手にはなかった下水工事も起こし、特に道路改良に意を注ぎ、街路樹栽培を行う等その実施に努力し、ほぼ完成を見るに至った。そして市街電車を一億円の市債を起こしてこれを市有とし市民の福祉に答えた。又、米国首府ワシントンに日本の桜樹を寄贈し、両国市民の親善を計った。
(住所 神奈川県三浦郡逗子町・・以下略・・)



(出典:東京都広報室広報部刊『名誉都民小伝』8~9ページ。昭和40年12月20日発行1965年 )

米国首府ワシントンに日本の桜樹を寄贈し、両国市民の親善を計った・・・と東京都は咢堂を評価し名誉都民と認定したが、

アメリカに桜を贈ったのは高峰譲吉博士、であるとして
尾崎説を問題視される御仁がおられるようです。
ご本もだされておられる。

御仁の言い分を受け入れるとすると、咢堂翁の名誉都民称号は剥奪されてしまうのではないでしょうか。

さて、御仁のご本を分析し、ポトマックサクラの貢献者を検証してゆきたいと思います。

ご一緒にお考え戴けますなら幸甚でございます       
                         以下

●ご本の19頁では、《尾崎行雄に手紙を出したということを書いている人がいるが、それは史実である証拠は示されていない。そのことは、尾崎行雄の自叙伝にものべられていない。
孫娘にあたる原不二子さんに直接照会したところ、そういう事は聞いたことは無い、との返事を戴いている。この二人の偉人が、個人として親しかったことを示す資料が見当たらないうえ、高峰譲吉はワシントンの桜に関しては表に出ないと決めていた節が有るので、おそらくこの手紙は存在しなかったのであろう。6月2日、水野総領事から外務大臣小村寿太郎宛、(華盛頓へ桜樹寄贈の件)という申請書が提出された。それには、シッドモアさんから水野総領事宛の感謝の手紙の写しが添付されている。》と記述している。


●20頁では、《(1909年)10月13日、尾崎市長は植栽地の管理責任者コルビー陸軍大佐宛で正式な寄贈伝達書を発送された。 それに対する12月10日付け礼状及びワシントン市コロンビア区委員会からの12月10日付け感謝状が東京市長宛にだされた。》と記述している。

●24頁では、《1976年高峰3世が特別招待を受けたサクラ祭りの晩餐会の席上では
フオード大統領がはっきりと「このサクラは高峰譲吉から寄贈されたものである」と参会者に披露している》と記述している。


●26頁では、《東京市は名誉を挽回すべく(1回目アメリカに送ったサクラ苗は病害虫におかされていて、全て焼却処分)、4月21日の市参事会で、再寄贈、農商務省農事試験場は、苗木生産並びに交際費による経費支出を議決している。依頼を受けた農事試験場は6月24日付で費用の概算を添付し、快諾の旨回答した。》と記述している。

 

●31頁では、《翌1912年2月6日東京市から派遣された 係官、中村俊輔井上清の二人によって、現地興津の責任者実務者3人立会いのもと綿密な検査を受け》た と記述している。
つまり、桜苗を育てている静岡県清水興津農事試験場に東京市は職員を派遣したことを記述している。




●32頁では、《わが子のように慈しんできた苗木を追っかけて、熊谷技師は12月8日朝5時半 興津発の汽車で出発し、途中一人で謡曲をうなりながら、大船のサンドウィッチと牛乳で早昼をすませ、11時横浜に到着、横浜植木会社に直行し、早速東京市役所から来ていた内記課中村課長(前述の中村俊輔氏と同一人物とおもわれる)も加わって船積みの為の荷造りについて、6040本の苗木が、10束づつ束ねられて、10箱に、5時間もかからずに見事に梱包された様子が熊谷技師の日記に残されている。輸出手続を担当した横浜植木会社の社史には、ワシントンへ3000本の水苔廻し、箱詰めを行ったとのみ、記載されているが、当然、ニューヨークへの物についても、実施され合計6040本であったにちがいない。 フエアチャイルド博士の書簡に、「ハワード昆虫局長がいまだかってかくの如き完全なる輸入植物をみたることはなし」と小生に語った》と述べられている。

●41頁では、《1918年、米農務省技師W.T.S wingleが来日し、彼の下で働く農学士田中長三郎が熱心に一切の世話をしており、土壌が適しているらしく一本も枯れず、生育が非常によいという情報をもたらしている。》と記述している。




●42頁では、《尾崎は自伝でタフト夫人から聞いて、自ら東京市に諮ったと書き残している。 》と記述。


●43頁では、《1954年、3月30日、東京都知事から日米友情のシンボルとして石燈篭(20トン)が駐米の井口大使によってワシントン市に寄贈された。この燈籠は上野寛永寺にあったもので、1651年(慶安4年)11月20日の刻銘がある。
ポトマックのサクラ祭りはこの燈籠に点火してのち開始されることになった》(注:現在は電気点灯式)。〈注:東京都知事が上野寛永寺の石燈篭を贈られたことでは、かつて東京市長尾崎幸雄がさくらをおくったことを継承したかったことではないでしょうか〉


●45頁では、《「フオード大統領はサクラ祭りの晩餐会の席でサクラは高峰博士の寄贈であると賛辞を述べた」》と、またまた紹介される御仁。


●45頁では、名詞大の写真で《東京都贈呈の石灯籠(寛永寺の物)》が掲載してあります。キャプションには《点灯する井口駐米大使令嬢》と記述しています。


●61頁では、《フオード大統領は「サクラは高峰博士の寄贈である」》と繰り返し記述している御仁。

●62頁では、《高峰博士が単独で支払ったことを示す資料は見当たらない。一方ワシントンへの寄贈の経費(実務を含む)は、高峰譲吉博士、東京市そして日本郵船が分担し、その中で高峰博士の寄付が大きかったと考えるが、一番妥当のように筆者には思える。
ただ、寄贈に触れた米国の資料には、高峰博士のdonation(寄付、寄贈)であるとか書かれているのに反して、日本の記録では、イエスでもノーでもなく、また主語「寄贈者」がない文章が散見されるのは興味ふかいことである。》と記述している。



●50頁では、《 寄贈された本数については、日本から寄贈した桜の本数同様、資料によってまちまちである。先ず、東京都が出している二つの冊子のうち、1950年版には30本持参と、1960年版には、40本持参(東京市公園担当技師井上清談)と書かれているが、どうやら40本が正しいようである。(永田町・尾崎メモリアルホール展示室)。
そしてフエアチャイルド博士が1920年に国際地理学会報に載せている回想文には、数百本の樹と数ポンドの種が東京に送付されたと書かれている。》と記述している。
著者は
著書に「井上清」と書かれておられる。が、これは井下清翁のことであろうとおもわれる。東京市〈都〉の管理職であった井下清翁が、返礼のハナミズキからの育苗を指示された立場におられた。
さくらを贈った尾崎幸雄市長を高く評価できぬ視点に立たれると、井下清翁の存在も重くうけとめれぬようになってしまうのでしょうか。「井上清」と記述されてしまったことは、残念に思います。
贈呈主は尾崎説とされておられるならば、
井下清翁は重要な人物であることは、認識されるはずです。御名前の間違えではすまされぬことではないでしょうか・・・。

著者は、著書をあるお方に献呈されておられた。そのお方は著者の上司さまであったようです。・・・ということは、まさか「社命」でお書きになられた?
私は、そのようなことは無いと信じたいのです。

もしも「社命」であるとするならば、ことはもっと複雑化しましょう。つまり、尾崎説をひっくりかえして、高峰博士に名誉を与えることになりましょうからです。

高峰博士は、そのようなことを望まれてはいないでしょう。
東京市からアメリカに桜が贈呈された説を
高峰博士は支持なさっておられる筈です。
あの世でも
支持なさっておられる筈です。
フオード大統領はサクラ祭りの晩餐会の席でサクラは高峰博士の寄贈である、とお話しされたことについて、
謙虚な高峰博士は困惑されておられる筈ではないでしょうか。



▼私はもうしあげたい。
シドモア女史の一貫した初心:さくらをアメリカに移植したいねがいをバックアップされた高峰博士は
ニューヨークの桜植樹で主役的な活躍されたとおもいます。
ポトマックの桜植樹では裏方に徹して奔走されたとおもいますが、
東京市長尾崎行雄の役割を排除的にとりあつかうとするならば、いかがなことになりましょうか。

御仁のお著書には肖像写真をたくさん掲載されておられますが、そこからも、御仁の思惑がつたわってきているように思われるのです。
つまり咢堂翁の評価を低くしたい思惑がつたわってくるのは
私の読解力のなさなのでしょうか。


▼御仁は渡米までされて探究されたお著書です。
大変な労作と思っております。教えられることは多々ございました。
そのお著書で使用する写真、多数掲載されておりますが、それからも見えてくることがあります。

●扉2の頁には、
高峰譲吉博士、シッドモア女史、ポトマックのサクラの3点を掲載されています。

●本文中には肖像写真がたくさん掲載されています。掲載順にその人たちのお名前を列挙してみましょう。    
                     以下
高峰譲吉/エリザ・R・シッドモア/明治天皇の美子皇后/タフト大統領夫人へレン/フェアチャイルド博士/マ−ラット博士/日本郵船第3代社長近藤廉平/古在由直/
恩田哲弥/熊谷八十三技師(元東京府立園芸学校長)/三好学/船津靜作/堀正太郎/田口一太(紐育の高峰博士自宅の研究所事務員)/金子堅太郎/
                      以上15名でした。

なんと、なんと、サクラを贈った東京市長の肖像写真は、
掲載されていませんでした。
東京市(都)の市民(都民)のおもい:友好親善のおもいが、抹殺されているとしたら、ことは重大な問題となりましょう。