雲取山荘・・・・・東京の最高峰に立つ

 2011年8月6日の雲取山荘音楽祭にでかけることにした。
音楽は良いものだ。大震災直後、私たちはアメリカから頂いたハナミズキの音楽会を東京で成功させた。
 私は雲取山の山桜も大好きで、5月の登山もしてきた。
日本の桜はワシントンのサクラとなって咲きほこっている。人の手で守られてポトマックの桜は、来年100周年を迎える。東京都がその件で祝賀会を催すかどうかは、未だわからないが、東京一の雲取山から、日本百名山の頂から日米親善の花を考えてみたいものだ。Sakikoさんの音楽を聴くだけではなく、このような思いも抱いて登ることにした。

登山は油断はできないので、最近の山事情を調べてみた。

山荘のHPをみると、以下が掲示されていた。


日本大震災によって被害にあわれた皆様に
心よりお見舞いを申し上げますとともに
一刻も早い復旧をお祈り申し上げます

    
   8月6日 (土)音楽祭 演奏:グルーポ・マニャーナ+高橋咲子(パラグアイ・ハープ)
   8月13日(土)夏祭り 歌:茂木雅子   どちらも山荘前庭にて19時から行われます。
   演奏の後は焼肉・焼きそばの食べ放題、地酒・ジュースの飲み放題
です。
        
山荘宿泊者は参加無料ですのでぜひ都合を合わせて登山して下さい。

登山コースに関しては、以下の注意書きがあった。
         三峰山ロープウェイは廃止となりました。         
三峰神社へは西武バスをご利用下さい。 
             バスの時刻表はこちら
         平日1日3往復。土曜・休祭日は5往復です。

         日原林道は道が崩れた為現在通行止めです。         期間未定・人も通れません。
          
唐松や林道・富田新道も通れません。

         日原林道〜大ダワ間及び小川谷は通行止めです。         道が一部崩れていますので通行しないでください。

         後山林道は現在車両通行止めです         期間未定・人は通れます。

        三条コースの三条ダルミ〜山荘にかけての巻き道と小雲取〜山荘の巻き道は道があまり良くないので通らないで下さい。(山頂を経由して下さい)

         懐中電灯等は必ずお持ちください。


山荘の
HPイベントをみると、年間をとおしての企画がたくさんあった・・・・
イベント予定   山荘宿泊者なら誰でも無料で参加出来ます。・・・



私は
今までは自分の都合に合わせて雲取山登山をしてきた。登山口は奥多摩湖側からだけであった。鴨沢口、お祭り口から登った。
三条の湯小屋に宿泊したこともあった。単独で登ったことは1回のみで、他は仲間と登った。

今回の登山は、演奏家:郄橋咲子さんのサポート役を自負し、ご一緒することにした。
25000分の1の地図を新たに購入、調べてみると、なんと、一番の難コースではないか、と思った。太陽寺側からの登山は、お嬢様のsakikoさんには無理、初心者の登山コースとしては無理なコースとみた。
そこで2度も再考をお願いした。が、山荘主の新井信太郎さんや毎年登っているという演奏家仲間と一緒に登りたい、と決意は堅かった。

8月6日の登山当日、
私は3:30分に起床。シャワーを浴びて脳をすっきりさせ、常盤台駅前経由で練馬の旭町に向かった。愛車を置いて、sakikoさんのワインレット車に乗りかえることにした。

5:10 旭町発。運転役はぼくら男が、といったがsakikoさんが運転。
関越道の花園で一般道に下り、待ち合わせ地へ。

7:00に 秩父市内のセブンイレブン店駐車場で仲間と合流、
登山口の太陽寺口にむかって、林道を走った。
準備運動後、

8:30 登山開始。


新井信太郎さんのお姿がみえたので、私は長老にごあいさつしに歩みよった。
山荘からは幾度も年賀状をいただいた私だが、それだけではなかった。新井さんのお著を拝読させて戴いてもいた。それで、ご一緒の山行を光栄におもったのである。

新井さんのお著はたくさんあるが、ご紹介をしておきたい。

     ● 『雲取山に生きる』(実業之日本社
     ● 『雲取山のてっぺんから』(けやき出版)
     ● 『雲取山よもやま話』(さきたま出版会)
     ● 『雲取山の歩き方』(けやき出版)

 日本山岳会終身会員でもある新井さんは、なかなかの文化人でおられる。文化人がゆえに山荘での文化行事を大切にされてこられたのだろう。
   
さて、登山開始はしたが急坂の登りが続いた。
私は30分もすると、休みたくなった。
咲子さんをサポートしようと、こころの裡では思っていたが、それどころではなくなった。やはり、夕べの3時間弱の睡眠不足がたたった。夕べはお台場の日航ホテルで深夜まで宴会があり、就寝は零時をまわってしまった。

日航ホテルの15階から撮影


「山をなめてるぞ」と同行の親友に繰り返し言われた。
指摘の通りであったが、俗世界にいると、いろいろとおつきあいがあって、中座できず早めに就寝ができなかったのです。

10:00にお清平についた。
ここは霧藻ケ峰を経由してくる合流地である。
このお清平のときは、演奏家一行のほとんどはおられたかと思う。新井信太郎さんは、出発時に、山荘には4時に着く、と宣言されたのであった。そのペースで、あとからついてこられるはずであった。

演奏家一行のグルーポ・マニャーナは咲子さんを衛かたちで先をいそぐことになった。
白岩山で昼食にするから」といいおいて、坂をのぼって、見えなくなった。

私は、やはり、体調不調であった。ゆっくりと、後からゆくしかなかった。

私は、このお清平からの登りで、ペースはさらに落ちた。

白岩の避難小屋付近では昼食をとる人たちが6~7人はいた。が、私ら4人は遅れていたので休まずに、先をいそいだ。

喘ぎ喘ぎで、やっとのおもいでたどり着いた。白岩、の標識がみえたので、
「前白岩だ」と私たちはおもって口にした。すると、
「まだ 肩ですよ」と、下山中の山男に教えられた。

前白岩の肩
山ガールと幾度かすれちがった。彼女たちは外見のスタイルがよかった。が、無言で追い越していった。
私は、登山中にあいさつを交し合う雰囲気が、山の魅力のひとつと思ってきた。登山が好きになった理由のひとつであった。都会の集合住宅にあっては、あいさつが無いのが都会文化と心得違いをされておられる者が、なんと多いことだろうか・・・。そんなことを神聖な山にもちこまれては困る。

大震災後の今風の合言葉“絆”。この絆のあいさつが、〝山ガール〟に無いようにみえた・・・・。

さて、本当の前白岩山を過ぎ、昼食の白岩山にむかった。
ずうっと登りであった。私は内心で落伍を覚悟した。そのような弱気の私をクマセミの鳴き声は止むことなく背をおし続けていた。

ひとり、白岩山小屋にもどり、横になりたかった。
白岩の避難小屋で、ひとりで横たわっていたかった。
すでに演奏家グループ、sakikoさんらから 1時間は離されただろう。
今回、私は覚悟をして登山に臨んだ。試験勉強でからだを酷使をしていた。3.11のときは、地下鉄が止まり、広尾から自宅まで3時間も歩き、膝を痛めてしまい、6月になって足首が腫れだした。血管外科でエコー検査もうけた。故に、6月の段階で、山岳保険を契約した。
いざという場合は担ぎ降ろされてもいいだけの保険に入った。が、保険にお世話にはなりたくはなかった。その前に、おのれの判断で、登山はここまで、と親友に告げようかと、思った。山上での夢はけしとんでいた。

一歩一歩、登りながら、おのれの撤退時期をうかがった。咲子さんのサポートどころではなかった。
そのような私の体調をしった親友はリユックの後押しをしてくれた。それは、かえって、辛かった。そのような山のぼり方ではあったが、ついに白岩山までこれた。

「15分まえに、咲子さんたちは出発しました」
心配してのこっていた演奏家のひとりは言われた。
昼食をとり、食後休みも含め40分は待ってもらっただろうか。だらしのない男になっていた私だった。
山道から20メートルほど離れて白岩山の標識があった。そこで記念撮影、どころではなかった。虻がうるさいほど、周囲を飛び回っていた。
疲れていた私は、白岩山のテーブルで呼吸をととのえるのが精一杯。
荒い呼吸をしていると、野鹿が3頭も寄ってきた。

私を心配気に見詰めている野鹿。瞳のうつくしい野鹿であった。


我々は水分をとり、おにぎりをたべて、しばらくすると、
「これから200メートルは下る」と親友がいった。
「折角、のぼってきたのに、下るのか」私はぼやいた。
「山はアップダウンがあるからいいのよ。その点、富士山はのぼり一辺倒で、きびしかったわよ」山ガールのようなすっきりした脚をした咲子さんのフアンさんは言った。
「富士は眺める山ですよ。私は1回で、二度とのぼらんぞ、と思いました。雲取は、鴨沢コースからの富士の眺めがいいですよね」と私はいった。

大休止のお陰で、私はいくらか元気になっていた。
私は、なんとか、こころの裡をあかせずに、山荘めざして歩きだせた。

ときどき、立派な樹木の幹を覆う網目を見て過ぎた。これらは、野鹿に樹皮を食べられて枯死を防ぐ防具であった。昨年登った日光の山も、野鹿の被害に遭っていた。酸性霧だけで山がはげるのではなかった。

芋木のドッケをすぎ、大ダワにたどりついた。

男坂、女坂の分岐点に立てた。
白岩山で、休息のときに、私らは、下山の人に声をかけた。そして、登山情報を得た。
「そりゃ、女坂をいったほうが楽ですよ」私らにとっては、とても重要な情報であった。
「山荘には、あと、わずかだ。」と親友はいった。
それでも、40分はかかろうか。と私は内心おもった。
木々のあいだから、小屋がみえた。
私は、目的の山荘かとおもった。が、ちがっていた。雲取ヒュッテであった。まもなくして、テントを張り、野営の準備中の一団にであった。
ここは山荘のキャンプ地にちがいないと思った。
やっと、ついいたぞ、とおもって嬉しくなった。キャンプの人にことばをかける余裕がでてきた。

15:20 山荘に到着した。

吾ら4人を野の花がむかえてくれた。ヤナギランの色が印象深かった。

4人組の中のひとりは、巨漢のヴァイオリン奏者。今回、出演はされないとのお話しであった。紅一点の咲子さんのフアンのsibaさん。彼女には塩分摂取の大切さを教えられた私であった。塩分を含んだ漬物をいただいて食べた。そして3人目は、私のリュックを押してくれた親友。親友は、携帯のナビを購入してきていた。きびしいぞ、といってきたので、それで、ナビをもってきたのかも、とおもった。吾らがいる高度もナビは教えてくれた。

雲取山荘はログハウス造りで、どっしりとした構えだった。トイレは山小屋には珍しい水洗であった。
玄関をはいった真前は、食堂。食堂は、まだ戸は閉められていた。5時から2回に分けて食事になるようだった。
我々サポート組みの男性は1の2室。女性サポート組は1の3室。
山莊から、ビールのサービスが各人に1缶ずつ配られた。これは、演奏家をささえてくれたお礼とみた。が、実のところは、私は、お荷物であった。
恐縮しつつ、塩分の女性もお呼びして、親友と三人で乾杯のビールをのんだ。美味かった。
《翌日の帰りぎわには、また山莊からいただくことになった。秩父多摩甲斐国立公園の名入れ手拭と温度計つきマグネットを戴いた。》

山荘の廊下には、なつかしい図書棚が並んでいた。
やはり山岳関係書がおおかった。

食堂の前には、皇太子殿下の登山記念写真が飾られてあった。
4時ころに到着の新井信太郎さんと私はお話しができた。
息子の晁一さんが、跡をとっておられると、登山中にきいたが、跡継ぎさんとの面識は私はなかった。信太郎さんは夕食時でいそがしいはずだったが、7時からの演奏会準備のことがあってか、玄関口にでてこられた。
お話ができた。

「そこの写真では、皇太子殿下は2度、こられたのでしたか」と私が質問をした。
すると、信太郎さんは
「皇太子殿下は学生時代もこられましたよ。3回、こられています。」
「そうでしたか。それは、すごい」
「山はつよい殿下で、早いですよ。」私のようにのろくはないということ。早いペースでの登山。
「どのコースでしたか。」親友も質問した。
「そうね、毎回、コースは違ってましたねえ。」
「そうでしたか。」登山口は6ルートもあるが、健脚コースを歩かれたのだ。
私たちが今回登ってきた三峰ルートは、かつては三峰山ロープウェイがあった。
そのルートを歩かれてこられたのだろうか、と思った。
「日原の大ダワを・・・」殿下は、日原ルートも歩かれたらしい。が、3.11の東日本大震災で、がけ崩れが起きて、今は不通であった。
「芋木のドッケに出かけられたこともありました」と新井信太郎さんは言われた。
ということは、三峰ルートは避けられたのかも・・と私は、納得して聞いた。太陽寺からのコースは馬の背が多く、危険なコースなのです。Sakikoさんに別ルートを勧めた私の最大の理由でした。

「食堂では、皆さんと同じものを食べられましたよ。お席も自由で、座られましてね・・・。」
えっと、声にはださなかったが、私は驚いた。
みなさんと同様に、並ばれもしたらしいのである。
お味噌汁とごはん。おかずは一品ほどを・・・・御召しあがりになられた・・・。
「登山客がもとめると、握手をなさっておられましたよ。気さくな殿下でね・・。」
格差、差別をつけられない殿下。
父君の平成天皇陛下、母君の美智子皇后さまのご薫陶を守られる皇太子殿下、そして雅子妃殿下なのだろう。すばらしい。豊かな人間性をおもちなのだ。日本の未来は明るいな、と私はおもった。
「もう、殿下は、雲取にはこられないだろうが・・・」と新井信太郎さんは、殿下をおもいやっていわれた、と 私はききとった。

山荘に飾られたお写真を私はまた、見上げて凝視した。当然だが、制服姿の御付の方々もいた。
皇太子ご夫妻は平成7年11月9日に登山されておられた。雅子妃はやや遠慮がちにご一緒で写真に納まっておられた。
雅子さまも、登山客の皆とおなじ雲取山荘食であったのだ・・。
そのような質素な食事なのに、
平成年19年10月22日には、皇太子殿下はまた登山をされておられた。

私は、皇室を想った。かつて、私たちは奥日光の南間ホテルに宿泊したことがあった。南間ホテルは平成天皇が皇太子時代に疎開されておられたお宿ときいていた。そのときの皇太子殿下の逸話を、私は宿の人にきくことはなかったが、敗戦の玉音放送を南間ホテルで聴かれた筈。このときの皇太子の胸中はどのようなものであったであろうか。
戦後、美智子妃をむかえられて、3人のお子をそだてあげられた。そのお子のオサのお子さまは山の殿下と親しまれている。殿下は雲取山に、三度も登っておられたのだ。

私は2009年 9月5日(土)、第22回府中平和まつりで、憲法学者の杉原泰雄さん(一橋大学名誉教授)の講演「日本国憲法から経済危機を見る」を聴いたことがあった。
その講演で、教授は「平成天皇陛下は、平和憲法を大事にされておられる」と断定的に言われた。このことは忘れられない話であった。
憲法学者の判定を、はじめてきいたおもいがしたから強烈な記憶になっていた。

その今上天皇の皇太子殿下もまた陛下同様に、平和憲法を大事にされておられると、山荘でのエピソードから、おもった。
本来、休養、娯楽のはずで登山をされておられるのに、皇太子徳仁親王さま、皇太子徳仁親王妃雅子さまは、登山者の求めに応じて握手もされた。質素な山荘の食事を召し上がられた。その粉骨砕身ぶりに私は恐縮してしまう。

ご自分を解放されるお時間であっただろうが、公務のように握手をされておられた。
お写真をみつめながら、ありがとうございます、とつぶやいた私であった。

8.6山荘アルパ演奏の郄橋咲子さんのハラカラは、旧名、小和田雅子さまとは、大学も職場も後輩にあたります。Sakikoさんの母の名がmasakoさん。同音であることも、失礼ですが、ご縁をかんじます。登山初のSakikoさんが雲取山の頂上に登ったこと。これは驚きでした。頂上ではケーナを吹いてもらったとのこと。それは、すばらしい思い出になったことでした。
雅子妃殿下に雲取山の演奏をそっくりお聴かせしてあげたい、と私は思うほどに、今回の山荘音楽祭に参加させて戴いて感動、感想でした。私は、演奏の曲目「かなしい人」のときは泪をながして聴きました。インカの人たちが滅びたことに思いをよせて作曲されたとのことでしたが、今回の津波で流された人、原発事故で避難されている人をダブッて思い出されて、泪が止まらなかったのでした。


8.7付け東京新聞ニュースサイトによると、山荘でのアルパ演奏写真も掲載されていまた。その記事の抜粋をご紹介させてほしいとおもいます。
「・・・・雲取山荘で六日夜、夏恒例の音楽会「アンデスの夕べ」が開かれた。会場は標高一、八三〇メートルの原生林に囲まれた山荘前広場。百五十人を超す宿泊者は、「コンドルは飛んでいく」「コーヒールンバ」などのメロディーに、手拍子をして原生林の中の音楽会を心ゆくまで楽しんだ。・・・・中略・・・・山荘主人の新井信太郎さん(76)が、山荘生活三十周年を記念して始めた。今回は、秩父を拠点に活動するフォルクローレ演奏の「グルーポ・マニャーナ」と、パラグアイのハープ「アルパ」の奏者高橋咲子さんが出演した。
  グルーポ・マニャーナは会社員や高校教師ら四人。弦楽器のチャランゴや管楽器のケーナ、打楽器のボンボなどを背負って山荘に登ってきた。大きなアルパは事前にヘリコプターで空輸した。演奏会の後は山荘心尽くしの料理や酒が無料で振る舞われ、山の話題に花が咲いた。  (村田秀雄)」

私は忘れられぬ思い出となった。
マニャーナがアンコール曲を弾き終わったとたんに、ぽつりと雨が降って来たことも印象深い。
貴重なアルパ楽器を室内に仕舞い込んだころあいをみはからったかのように、どっと、篠つく雨となったこと。天の采配に感謝した私でした。

音楽会が始まる前に、稲光や落雷の音に観客はどよめいたものでした。すると、オーナーの新井信太郎さんは、トレードマークのタオルを巻いた頭すがたで、みんなに向かって語りだされた。
「飛竜(山)での稲光は、雨は降るが、こちら側(白岩山)なら降らない、」と解説されたのでした。その解があって、みんなは、安心した。おどろきの不安の声も発せずに音楽を楽しむことができた。

演奏中の稲光は、照明くらいに受け止められたのです。虻が数匹、アルパや咲子さんのまわりを飛び回っていた。私は、はらはらしていた。咲子さんは逃げ出さずに、動ずる気配をみせずに演奏を続けた。内心は怖ろしかったのではないだろうか。

なにしろ、咲子さんは登山中、虫を電気ショックで一時たおすラケットを手ばなさなかったのでしたから・・。

雷雨がやんだ頃をみはからって、私は無料でふるまうお酒(秩父錦)をごちそうに外にでていった。
一歩一歩登ってきた苦労がふきとんだ。神やどる100名山のひとつ雲取山の霊気を胸いっぱい吸い込んだ私でした。