日米友好のポトマック桜1・・・タフト大統領夫人の功績

日米友好のサクラ、ポトマックのサクラを考察してくると、
      桂・タフト協定

を、忘れることができない。



フリー事典のWikipediaから、以下に転記してみよう。

《 桂・タフト協定 - Wikipedia
概要-協定の内容-背景と結果-韓国における反発
... であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中来日したアメリカ特使であったウィリアム・ タフト陸軍長官との間で交わされた協定。 ... この協定は、東京で日本の桂首相と ウィリアム・タフト特使が1905年7月27日の朝から外務次官珍田捨巳の通訳の下で 行なった ...



ポトマックにサクラを植樹をされた初めの人は、
ウィリアム・ タフト大統領の夫人ヘレンさんと、珍田駐米全権公使夫人いはさんであった。

前述のように、かつて、桂・タフト協定の時は、外務次官珍田捨巳が通訳・・・・・をされたのであった。
外交官の珍田は1911年に、駐米全権公使として赴任したばかりであった。珍田全権公使夫人いはさんは、津軽藩家老山中兵部の娘として弘前生まれの女性。

珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日(安政3年12月24日、) - 1929年(昭和4年)1月16日)は、弘前藩士珍田有孚の長男として弘前で生まれた。夫婦とも東北の人であった。


その珍田夫人いはさんはウィリアム・ タフト大統領夫人とともに
1912年㋂27日の植樹式に臨まれたのであった。


参列者には珍田全権公使、米国農務省のフェアチヤイルド博士、公園管理局長のコスビー陸軍大佐、シドモア母娘、埴原、斉藤らの日本大使館員らであった。
どちらかというと、さびしい植樹式であったが、日本の桜は亜米利加合衆国の大地に植えられたのであった。根を張り見事に開花してくれることを、祈ったことであろう。


 私は、〝寂しい〟植樹式であったとみる人にいいたい。これは、第1回目の植樹式予定が病害虫の桜苗であったことから、焼却処分となった苦いおもいが、響いたとみる。
世界的な名所になるポトマックの桜並木のはじまりは、控えめな植樹式となったが、それはむしろ、万が一に備え、配慮した植樹式ではなかったかとおもわれるのです。
 タフト大統領夫人ヘレンさんのお陰で、シドモアさんの永年の夢が結実した。この瞬間、シドモアさんの笑顔を想像しますと
私もうれしい気分になります。
シドモアさんたちにとって、決して寂しい植樹式ではなっかったのです。

植樹式で日本を代表されることになった東北人の珍田公使夫人いは様、
大役を ありがとうございました。

それにしても両夫人の
夫同士は、【桂・タフト協定】で、ご面識があったわけです・・・・ね。

この繋がりは、
ポトマックのサクラを考察してゆく上で
ヒントになりました。



【桂・タフト協定】は
明治38年(1905)、米国のタフト 陸軍長官と桂太郎首相の間で結ばれた秘密協定
米国のフィリピン統治と日本の韓国 に対する優越支配を相互に承認した。・・・と見られている協定。