野方苗圃 を 考察する 2
幻の野方苗圃の所在について考察してきた。
私なりの見解を既にもうしあげた。
●野方苗圃は大正9年(1920年)に設立され、昭和46年(1971年)に閉園されるまで、多種の樹木の苗が育成された。特に、ハナミズキ育苗功績は大である。
では
現在の「江古田の森」に野方苗圃があったとすると、
現在の地名と合わない問題がでてくる。
私は地元の古老たちの
言い伝えも 所在を特定する根拠のひとつにしたのであるが・・・・。
では
何故、江古田の地域にある苗圃が 〝野方〟なのだろうか。このナゾはどのように解釈したらよいのであろうか。
●苗圃の命名は、地元の人が付けたわけではない筈。
お役人が命名した苗圃名であろう。
その苗圃命名時代は 行政上の村名の 野方の存在は 大であったことから、「野方苗圃」 と命名されたのではないだろうか。
1889年(明治22年)5月1日:町村制施行に伴い、江古田村・上高田村・新井村・上沼袋村・下沼袋村・上鷺宮村・下鷺宮村が合併して、
東多摩郡 野方村が発足する。
その後の変遷を Wikipedia によると、野方村は 野方町となる。
野方町(のがたまち)は、かつて東京府豊多摩郡に存在した町の一つ。現在の東京都中野区北部に当たる地域。1924年(大正13年)に町制施行することにより誕生した。なお、その前身となった野方村(のがたむら)。 ...
●苗圃発足時は野方村にあったわけだろうから、命名は間違いではないのだと思う。 この野方村は、のちに野方町となり、のち、となりの中野町と合併して東京の区部のひとつ、中野区ができたのである。市町村の合併変遷から生み出された歴史的な命名、と思われる。
※呼び名については、卑近な例で、述べてみたい。現在の所在地:江古田とは 違ってはいようが、例えばの話をすれば、私には 「洗足の 伯父」がいた。 洗足駅が最寄駅であったことから、〝洗足の伯父〟と一族から、 呼ばれた のである。
実際の伯父の住所は目黒区富士見台であったが・・・。
野方村大字江古田に苗圃があったとしても、〝野方の苗圃〟で間違いではな かっただろうと思われるのです。
※「野方苗圃」ができた明治時代の江古田はまだ、エゴノキの茂る原野であった と思われる。地元の古老のお話しでは、エゴノキから、地名の江古と命名さ れたとの説があるくらいだ。江古田の原野はあまりに広大なことから、
行政上、江古田が分割されて、江古田地区と江原地区になった、と地元の大 地主:堀野さんに伺ったことがある。
※ウィキペデアのフリー百科事典によると以下のように経緯が紹介されてい た。
1919年5月 - 東京市療養所が当地(江古田の森)にできる(後の国立療養所 中野病院)。
1971年 - 都市計画により、国立療養所中野病院に隣接してあった野方苗 圃の部分を公園として整備し、都立北江古田公園として開園 (面積:約16,000m²)。
1987年 - 北江古田公園の管理が中野区に変わり、中野区立の公園になる。
1993年 - 国立療養所中野病院が、新宿区の国立国際医療センターへ
組織統合(移転及び統廃合)される。
2007年4月1日 - 病院跡地が公園と福祉施設として整備され、北江古田公園の部 分と併せて、全体で江古田の森公園として開園。
このウィキペデア事典から考察すると、療養所が いわゆる江古田の森に建設される前に、野方苗圃はあったことになろう。