東京の野方苗圃の功績

東京の中野区野方に 12000坪の広さをもつ野方苗圃があった。
現在の中野区江古田3丁目の江古田の森 と 隣接する北江古田公園が苗圃エリアであった。

野方苗圃は大正9年(1920年)に設立され、昭和46年(1971年)に閉園されるまで、多種の樹木の苗が育成された。
大正4年(1915年)にアメリカから桜の返礼として贈られたハナミズキは一時、日比谷公園で5本が養生保管された。のち、4本とタネ1ポンド分が繁殖を目的に野方苗圃に移管された。
移管されたその原木ハナミズキと贈られたタネからは、
大正12年時点で29000本が育成されたとの資料がある。

その勢いで推量できる育苗数は、最大で■■万本とみたい。だが戦時中は原木が伐採される受難があったことを勘案すれば、苗は簡単には日本人に受容されなかっただろう。敵国の樹木の子とみられたことで、需要先はゼロに近かったのではないだろうか。このようなことを考察してみると、累積総計は数■万本が育苗されて、供給されたのではないだろうか。
 戦後日本はアメリ進駐軍の支配となり、2010年の現在ですら沖縄はその典型を示していよう。
 政治のことは兎も角も、花水木は日本人の好みの花であり、樹木であることから、街路樹や庭園や各自の庭を彩ることになったと思う。大国米国に おもねてでないことは、吾ら日本人の矜持からしても 断じて無いと断言したい。
ハナミズキは日本人の目を楽しませてくれるのである。

 1998年4月号の『趣味の園芸NHK出版刊では、読者が選ぶ記念樹を募集したところ、好みの樹木は、花水木が第1位にランクされていた。

第2位が桜、第3位は梅、第4位は金木犀、第5位は松類、第6位は椿、第7位は柿、第8位は桃類と山茶花。とんで、第10位は もみじ・・・であった。

西行法師が好んだ桜が、第二位に落ちているのは、やはり、日本人の最近の住宅事情、庭の広狭さが影響しているのかもしれない。

昔むかしは、椿の花がころりと落地することから、武士階級は己の首がそようになりたくないとして忌み嫌い自庭には植えるものではない、と私は聞いて育った。私の故郷は城下町だったので真に迫って語られたものだが・・・現代では椿は好まれているほうではないか。
美しいもの、可憐なものは、 何といわれようとも好まれるのだ。

●西洋では キリストの磔につかわれた木が ハナミズキとの伝説も之ありで、ハナミズキへの思いは、深層のところではどうであろうか。
日本人は結婚式は教会で、葬式はお坊さんにお経をあげて戴いて、というような度量が広いのか、節操がないのか・・・では、磔の木がハナミズキであったとしても・・・・気にはならない、理解はできそうにないのかもしれない。
脱線したようだ。
 
 それにしても野方苗圃で ハナミズキの苗を 吾が子のように慈しみ育てられた人たちがおられたことで 町々で花水木の花が咲き 日本人の好みに 世論に影響を与えたのではないでしょうか。

野方苗圃で働いた人々の功績は大といえましょう。
日米親善ゴーの観点からみても
大いに讃えられて良いのではないでしょうか。

※中野区教育委員会は「野方苗圃」の記念碑をたてておられるのでしょうか。