日高畩千代先生

日高畩千代先生の教え子に
東京の副知事がおって、
荒川の五色桜を復活させようと、副知事にも働きかけたもんです。
私らが朝飯をくおうとしてるときでも、 客人がおっても、日高先生がこられれば、〈父重誉住職の〉恩師ですから、丁重に応接しなくちゃならん。
正直、つらくなっておった。父もトシでしたからね。足腰がよわってましたし・・。
先生の、ご子息が、また、親孝行な息子さんで、日高先生があそこへゆくといわれれば、自家用車で、でかけておった。私たちは、看板を江北のあそこに立てた。文面ですか。それは、五色桜復活としました。ご子息には、申し訳なかったが、桜復活はいいが、われわれは迷惑してる、直截に言いました。
 その看板は朽ち果てた。朽ち果てる前に、植樹した桜が枯れちゃった。薄墨桜も枯らした。また、譲ってほしいと出掛けたら、貴重な品種をお分けしたのにといわれましたよ。当然です。植えるだけじゃダメだ。あとの、手入れが大切だ。桜の根元に他の木を植えるのなんかあも駄目さ。躑躅なんかもさ。竜のひげならいいだろうが・・・。ご高齢の日高先生は、桜復活にあ、情熱をもやしておられたねえ・・・。
 インタビューをしている私は、吉田松陰の教え子たちを想った。教え子は松陰先生に続けと、高杉も久坂も〝狂〟の一字を名前として、維新に取り組んだのだ。司馬遼太郎は〝狂〟にならなければ、ものごとは成し遂げられないといいきっておられたことを憶いだした。日高畩千代先生の五色桜復活にかけられた執念は、まさに〝狂〟の境地で取り組まれたのだ、と ご住職嶺誉さんのお話を伺って、思った。
弁のたつ先生でしたよ。背丈は中肉中背かな。(そうか、人格者の先生は、その雄弁さもあって 私学協会の会長もされたと、足立史談は伝えていたのかも・・・)。
 江北小の110周年記念式典で日高先生は講演をされた、と地元の「江北村の歴史を伝える会」誌は伝えている。


 日高先生が書き残されたお著『熱き血潮を胸にもつ』(平成元年刊、発行人日高畩千代)から、私は桜復活は供養のおもいも けさ千代先生にはあったのでは、と考察する。海軍の戦闘帽には 桜のマークがあったことも、頷けたひとつだった。
また、敗戦の日がきます。英霊がふるさとにもどってこられたとき
絶滅の五色桜並木ではもうしわけない、花でかざってお迎えしたいものだ。そのような思いも けさ千代先生にはあったのかもしれなかった。
 この『熱き血潮を胸にもつ』、この言葉通りの日高先生でしたよ・・とご住職はいわれた。私は肯いていた。熱き血潮の フレーズは府立6中の校歌にあった・・・。

 私が日高けさちよ先生の取材で原宿の水交社を訪れたとき、富良野GROUPロングラン公演 2010夏 「歸國」のチラシが目にとまった。
倉本さんの脚本演出『歸國』も、多分そのようなおもいがこめられた作品なのかもしれないとおもって手にとった。

日高畩千代先生のご冥福をお祈りもうしあげます。