エリザ・R・シドモア女史 と 大山捨松女史

エリザ・R・シドモア女史 と 大山捨松女史の接点を
私は探究してきた。

津田梅子さんの女子英学塾(のちの 津田塾大学)の理事を大山捨松女史はされていたこと。

新渡戸稲造さんは女子英学塾の顧問をされていたこと。

お二人の接点から、シドモア女史の一途な望みは、間接的であろうが、大山捨松女史に伝わっていたとみたい。

津田梅子さんが体調不調のさいには、捨松女史は卒業証書を学生にわたしもしていたのであった。捨松さんは、いのちをかけて、女子英学塾をささえていたこと。そのお姿がみえてきた。その英学塾を支えるなかで、
新渡戸稲造博士と大山捨松女史との接点はあった。

エリザ・R・シドモア女史が日米親善に大和サクラをアメリカに植えたい、その思いは、
捨松さんのお耳にはいっていたにちがいなかろう、
と推理したい。

捨松の夫こと大山巌は、
日露戦争では、元帥陸軍大将で満州軍総司令官であった。
フリー百科事典ウィキペディアによると、
《 ともに、日本の勝利に大きく貢献した。同藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼の所謂「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、
政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた。》とある。

日露戦を早期に終結させたかったことは、妻の捨松も知ってはいたとおもえる。
この夫の願いを、優秀な捨松のことである。阿吽の呼吸でつかみとっていただろう。それは、
エリザ・R・シドモア女史との接点、とならなかったであろうか。


捨松がアメリカの大学留学中にかいた論文『日本の明治維新とその政治的背景』(出典:久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松中央公論社、1988刊、112頁)や、大学卒業のおり卒業生代表で記念講演した演目『イギリスの日本に対する外交政策』(出典:久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松中央公論社、116頁)。

その内容からしても政治的であったことをおもうと、その可能性は無いとはいえないのではなかろうか。
ただし、この行動は隠密裏におこなわれることが前提であっただろう。


歴史の真実は、記録、証拠の有無だけで判断されるのが本筋であるが、不明の点は、洞察力で穴をうめることではないだろうか。シドモア女史の日露戦へのこだわりからも、もしや・・・と推理は働いてゆくのである。