渋沢栄一翁 と 新渡戸稲造

シドモア女史と新渡戸稲造夫妻は親密な間柄であった。
桜をアメリカの地に咲かせよう の運動で、新渡戸と同志であった。

シドモア女史は、アメリカ合衆国の議会が日本人排撃の移民法を通す事に抗議をしていた。遂に己の意思表示から スイスに移住したと伝えられる。
シドモア女史は、アメリカに二度と帰国することはなかった。異国で亡くなられた。あれほど、アメリカに桜をと運動してきた愛国者が・・・。政府の過ちには毅然と対峙した。

渋沢栄一も日本人排撃の移民法を通させてはならぬと、アメリカと国民外交(民間外交)を続けてきた。大和人形を贈ったのも、そのひとつでしょう。
「日本太平洋問題調査会」を立ち上げたのもそのひとつであった。渋沢はその会の評議会会長を引き受け、理事長には、新渡戸稲造をすえた。

米国の国内事情は新渡戸から聞いていたことでしょうし、桜の話もきいたことでしょう。が、切迫しつつある日米関係悪化に経済人・渋沢は敏感であり、骨身をおしまずに、理念をもって奔走したのでした。

新渡戸稲造は、シドモア女史のご遺骸を横浜の外人墓地に引取ったのでした。