芭蕉翁 と 桜
おくの細道
を
おもいたった芭蕉は
桜みたさであった・・・との丘氏の説『桜守りの三春』視点社刊がある。
《芭蕉はおくの細道を旅するにあたり、門弟たちへ手紙をかいている。
岡田喜秋著『旅人・曽良と芭蕉』河出書房版によれば、桐葉宛では「拙者三月の節句過ぎ草草、松島の朧月見にとおもひ立候、白川、塩竈の桜、御浦やましかるべく候・・・・・
仙台より北陸道、みのへ出で申し候而・・・・・」。
また伊賀上野の門人遠雖に宛てたものには「弥生に至り、待ち侘び候塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり、秋の初め、冬までには、みの・おはりへ出候。・・・・・」と書きのこしている。
門人たちへのどの手紙にも桜花にこだわりがみれる。
西行の「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」を知るにつけ、西行を敬慕する芭蕉ゆえに奥州路への決意のほどが暗示されているのではなかろうか。
卯の花季ではなく、桜前線に合わせ出立できておれば、三春の桜守りが土に生きる心をみてほしいものであった・・・・・。三春の枝垂れ桜が咲いていようとも、芭蕉は、安積の沼の、花かつみを日暮まで捜しもとめて、漂泊してゆくことだろうか。》
OKA氏は芭蕉の不可思議な行動から、金子兜太氏の説、芭蕉隠密説に共鳴している。
芭蕉の時代も、三春の滝さくらは有名であった。が、
その三春の枝垂れ桜に芭蕉は言及をしていないのである。このことは芭蕉の心裡の反映とおもわれる。
まだある。芭蕉参百回忌の平成5年前後から、話題になった芭蕉自筆の『おくの細道』のことである。それが世にでた。岩波書店から複製・公刊された。
『おくの細道』の玄関口に辿り着い芭蕉は、次のように書きのこした。
《古人冠をたゝし
衣奬を改し事など清輔の筆にもとゝめ置れしとそ
卯の花をかさしに関の晴着哉
兎角して越行まゝにあふくま川をわたる左りに会津根高く
右に岩城相馬箕張の庄常陸下野の地をさかひて
山つらなるかけ沼と云所を行にけふは空曇りて物ゝうつらす
曇りて須か川の・・・・》
岩城相馬箕張の庄・・・・は現代表記ならば
いわき相馬三春の・・・・となる。箕張の庄=三春の庄 であるが、
芭蕉は三春としたためるには恐れがあったのではなかろうか。
慎重なこころの持ちぬし、とみる。
三春は伊達藩の政宗とはご縁があった。政宗の正室の出身地三春。「伊達藩内偵」の密命をおびておればこそ、三春、とかけなかったのではないだろうか。
箕張の庄・・・とかかざるをえない、芭蕉を慎重にさせたのではなかったか。
写真は政宗正室の親田村公の菩提寺:三春福聚寺